地域に向き合う トークライブ Web版 

 

2017.3.25

和歌山県みなべ町ふれ愛センター

 

 ● 中村 伸一 医 師 

  福井県おおい町 名田庄診療所 所長 

 

 ● 武田以知郎 医 師 

  奈良県明日香村 国民健康保険診療所 所長

 

● 関原 宏昭 にんべんのつく健築家 

 ラピュア地域デザイン研究所 所長

 

(ファシリテーター 関原) 

 

何年ぶりでしょうか? みなべ(和歌山県みなべ町)へ三人で訪ねさせていただきました。場を通して地域の元気を考えるようになったきっかけ、言い換えればここは私達の『原点』の地であります。本日は、いつも各々が講演をしている内容と趣を変え、三人を育ててくれた『地域』について『地域への思い』を中心に話してみたいと思います。

本日は関原が進行をさせていただきます。

 

まず中村先生の自己紹介から

 

●中村伸一(自己紹介)

中村伸一です。昭和38年生まれで当年54歳です。平成元年に大学を卒業し、医師免許を取得しました。ですので卒業何年目かはすぐわかります。

近いうちに元号が変わりそうですので、変わったらどうしようか不安です。(笑)

現在、医師になり28年目が終わろうとしています。

 

僕は、栃木県にある自治医科大学を卒業しました。この大学は、卒業すると自分の出身地である都道府県へ戻る制度になっておりまして、福井県出身ですので福井へ帰りました。武田先生も同じ大学卒業で、奈良県の出身でしたので、奈良へ帰り県庁職員として働かれていました。これは、卒業後9年間は地域医療をする事が義務づけられている大学独自の制度です。

 

初め福井県立病院への辞令がありました。この病院は1000床以上ある県下で一番大きな病院で、2年間研修医として働きました。 

1年目は、内科、外科、小児科、産婦人科、救急外来、麻酔科。

2年目は、整形外科、脳外科、泌尿器科、そしてもう一度麻酔科、救急外来をしました。

終わりの半年は志望していた外科につき、修医期間は終了しました。

 

3年目、県庁から名田庄村(現福井県おおい町 人口約3000人(当時))の診療所への派遣辞令がありました。一般的に派遣期間は1〜2年で交代することが多いのですが、僕は名田庄村が気に入り5年間おりました。

先程、義務年限が9年間あるとお話しましたが、ここまでで初期研修2年、名田庄村5年の7年間ですので、残りの2年間はもう一度福井県立病院へ戻り外科医をしました。

 

実は、初めの頃それほど地域医療に力を入れようと思っていなかったのです。地域医療に従事する医師を育てる大学だったのでけれど、義務を果たしたら自分は絶対に外科医になろうと考えていました。つまり、それほど『地域』にこだわる思いはありませんでした。

 

しかし、離れがたいエピソードがいくつか起こり“地域に残ろう”と思うようになりました。かっこ悪い話なのですが、1つは誤診をして病気を診のがしてしまったことです。たとえば、肺炎を見逃して風邪と診断しても大した見逃しではありません。

 

診のがしたのは、“クモ膜下出血”だったのです。皆さんも聞いた事のある病名だと思いますが、脳の血管が“バーン”と破れて突然激しい頭痛がくる病気です。一度患ったら半分くらいの確率で亡くなる“最もヤバイ”病気でもあります。よく見られる典型的な症状は、普通に生活していた人がある日にある時、何の前触れもなく突然“ドガーン”と激しい頭痛に襲われたりします。人生最悪の頭痛とか、ハンマーで殴られた時のような痛みとか言われるのですが、ハンマーで殴られたことのある方はそんなにはいらっしゃらないと思いますよね。(笑)そのくらい激しく、突然来る痛みが典型的なものです。

 

しかし、典型的ではない症状も少なくありません。医者の間ではクモ膜下出血というのは重篤な病気ではあるけれど診のがす事も“ままある”ものとして捉えられています。僕は若い頃に救急外来で多くのクモ膜下出血を診てきたので、自分に限って“診のがすはずがない”と自信を持っていました。ところが、赴任した3年目の平成5年に“失敗”するのです。

 

名田庄村は福井県西部で最も京都府よりの位置にあり、京都市内からは車で約二時間の山間部にあります。こんなことがありました。

 

京都市内在住の女性(62歳)が曲がりくねった山道を運転し、名田庄村を訪れ旅館に宿泊されました。その女性と旅館のご主人は叔母と甥の親戚関係でした。

旅館に到着後すぐ夕食にされ、鍋をつつきながらお酒を呑まれていたのですが、気分が悪くなり吐き気をもようされました。午後9時頃、「親戚の叔母の様子がおかしいから診に来てもらえないだろうか」と、旅館のご主人から電話がありました。

 

診に行くとその方は「両肩が痛くてなんだかえらい(しんどい)」と話されました。これは長距離運転をされ、肩が凝り、休む間もなくお酒を呑まれたからアルコールが早く回り、酔って吐かれたのだろうと思いました。しかしながら「クモ膜下出血でも似たような症状があるので慎重に診ておきますね」と、本人と旅館のご主人に話しました。

肩の痛みに痛み止めの注射を打ち、点滴で1時間に500ccを入れお酒のアルコールを薄めておきました。「どうですか?」と伺うとにっこりと笑いながら「お陰さまで楽になりました。」と、返されたのでこれはクモ膜下出血ではないなと思い、午後10時すぎに家へ帰りました。

 

その後2時間経った午前0時頃、旅館のご主人から再度電話で「先生、叔母の様子がおかしいからもう一度診に来てもらえないか」と連絡があり往診に向かいました。その時、患者さんは意識が朦朧とされていました。“しまった!クモ膜下出血だ!”

 

出来るだけ処置を行い、小浜病院(地域中核病院)に電話を入れ「ほぼ間違いなくクモ膜下出血だから準備をお願いします。」と連絡し、救急車を呼び、僕も同乗して病院へ向いました。病院では既に脳外科の先生もスタンバイしていただいていました。早速、CT室で先生と一緒に診ると、やはりクモ膜下出血でした。“がーん”「ともかくよろしくお願いします。」深々と先生に頭を下げ、あとは呆然としていました。

 

ちょうどその頃、名田庄村のことがわかり始め、面白くなりかけていたところでした。が、“もうこの村には居られない”“住民の方に顔向け出来ない”と思い、“来年はここを去ろう”と考えていました。

何より患者さんの命がどうなるかわからない状況で、命が助かっても重い障害を残すかもしれない、患者さんがダメになる、自分もダメになる、ああ“もうアカン”という状態で、頭の中は真っ白でした。

 

そんな所に旅館のご主人が来られました。僕は「すみません、すみません」と、ひたすら謝りました。普通でしたら「先生が一回目の往診でみつけてくれればこんなことにならなかった」と責められてもおかしくない状況です。

ところが旅館のご主人は「先生もきっといやな思いしとるんやろなあ。こっちもなんべんも夜に呼び出して悪かったわ。どんなに一生懸命やっても間違いは誰にでもあるから、こういったことは『お互い様』やから」と言って僕を慰めてくれました。救われました。

その後、僕にとって幸運だったのはその患者さんは何の後遺症もなく治ったのです。現在も京都で暮らされ80歳を過ぎておられます。本当に助かりました。しかし皆さん、どうして僕は旅館のご主人に許されたと思いますか?男前やから?(笑)

 

名田庄診療所 中村伸一ブログ

 http://natasho.blog105.fc2.com/

 

10年くらい経って「どうしてあの時許してくれたのですか?」と旅館のご主人に聞いてみたのです。すると、「先生は謝ったやろ。言い訳一つもせんかったやろ。」

言い訳はできたと思います。例えば「クモ膜下出血というのは非典型的の場合は診のがすこともあり、こうしたことはたまにあるのです」とか。

もし、訴えられたら自分を防御するような言い方もできたかも知れません。でも、一切言い訳しませんでした。謝りました。こうして許してもらえたのが、地域に居る一番の理由じゃないかと思います。

 

ずっと外科医になりたくて地域は義務だけ果たしてやめておこうと思っていたのに、義務が明けもう一度『名田庄村という地域』へ戻ったのは、この一件が最大の理由です。良い話ですね〜(笑)

 

関原 

ドラマのような話が本当にドラマになったのですよねー

 

中村 

NHK BSプレミアムで“ドロクター”というドラマになりました。

 

武田 小池徹平ちゃーん(笑)

 

NHK BSプレミアムドラマ 「ドロクター~ある日、ボクは村でたった一人の医者になった」

 番組詳細

ロックとプロレスが大好きな若い医師が、へき地医療の現実に直面。もがき苦しむ中で、人々との絆を深めてゆく感涙の実話ドラマ。ドロクターとは「やんちゃなドクター」の意。“村でたった一人の医師”として奮闘する中で、「2~3年で都会に戻ろう」と軽く考えていた中村医師の意識が徐々に変わり始めた。そんなやさき、痛恨の事態が起きる・・・。

原作:中村伸一 脚本:田村孝裕 2012年9月16日23日(前・後編)放送

 

関原 

武田先生は中村先生の大学の何年先輩になるのでしょうか?

 

武田 

こっち(中村先生)が先輩ですよ?どっちが先輩に見えますか?(笑)

 

中村 

1年生の時に5年生だった先輩です。

 

武田 

年上なのですよね〜

 

中村 

僕は年齢にしては若いほうに見られるのですが、武田先生はもっと若く見えますよね〜

 

関原 

武田先生は奈良県の部長や奈良市立病院の副管理者をされておられたのですが、中村先生のように地域で頑張られる先輩、後輩の方々がいる中で、自分ももう一度『地域へ』という事で40歳過ぎて要職を辞め行動されたわけですが、このあたり深〜い話がありそうですね?

 

中村 

奈良県の僻地医療部部長ですから県立医大の教授クラスですね。そのキャリアを捨て、奈良市立病院の副管理者になられ、それも捨てて明日香村の仕事をされているのですよね〜

武田 楽しくさせていただいています。

 

では武田先生の自己紹介を。

 

●武田以知郎(自己紹介)

僕は、中村先生と同じ自治医科大学に行きまして卒業後、奈良県へ戻り天川村という山間僻地に赴任しました。《天川伝説殺人事件》で有名な?天川村です。もちろん殺人事件はないですよ(笑)その映画が公開された頃ちょうど診療所で働いていまして、映画で死体が上がって検死に行くシーンがあるのですが、その検死した医者は多分僕のことだなと思っていました(笑)

 

 

もう一箇所、旧大塔村(現五條市大塔地区)へも赴任しました。ここは紀伊半島大水害(2011年)で多くの犠牲者を出した所なのですが、この二箇所の診療所で僻地医療を頑張りました。

義務年限を終え、小児科の専門医として奈良県立医科大学の医局へお世話になることになりました。しかし、着任後いきなり「はい、福井へ行って下さい」と、福井県へ派遣されることになりました。場所は、美方町(福井県中南部)です。ここへは単身で赴任しました。

 

近隣には名田庄村•中村伸一をはじめ、周辺市町村にも有名な先生達がいらっしゃり、地域医療の“熱い”エリアでした。当時、僻地医療のことはあまり考えてなかったのですが、彼らの思いに触れながら診療していると、いろいろな刺激を受け、だんだんと本気で『地域』に向き合うようになっていきました。

 

そんな時、奈良県から再び「僻地支援部を創るから初代の部長になっていただけないでしょうか」と、招聘の声がかかり戻ることになりました。

義務年限の間、僕たちは県から◯◯市町村へ派遣の辞令が出たら、鉄砲玉のように行き、そして援軍のない状態で一人頑張ることが任務でした。

そこで、新設の僻地支援部ではそれでは“アカンやろ”ということで、僻地で一人頑張る医師達が、勉強ができ学会へも行け、病気の時には応援の診療にも行きながらキャリアアップできるようにと支援システムの構築を進めました。

 

全国には何箇所かあったのですが奈良県でも立ち上げることができました。

しかし、より現場で地域医療に自分自身が向き合える環境を求め、構築したシステムが一段落した所で、県の職員を退職しました。

 

 

ちょうどその頃、地域医療の拠点病院となる市立奈良病院を立ち上げる事業の誘いがあり挑戦することにしました。こちらも無事立ち上がり、軌道に乗せることができました。 現在は、研修医を育てる病院としても有名になり、後輩達も育ってきています。

しかし、トップへ立つ事は性に合わなく現場が好きなものですから、大病院よりも原点である『地域』を望み、明日香村へ赴任し再挑戦することにしました。

 

そして現在は、明日香村診療所を拠点に奈良医大の若い先生達が地域と連携し、地域医療、介護を一緒に協力してやって行けるように仕組みづくりをしています。

また、奈良県介護支援専門員協会の理事もやらしていただいており、奈良県の医療と介護の仕組みづくりにも取組んでいます。

 

明日香村診療所

http://asukamura.jadecom.or.jp/

 

関原 

益々忙しいですね〜しかし、真面目な話ですね〜。人柄がばっと出た自己紹介でしたね〜。

 

中村 

明日香村行かれた時にびっくりしましたね。なんで僕みたいな仕事をするのだろうかと(笑)

 

関原 

県の部長を突然辞められ地域へ再び行かれたのは何歳の時でした?

 

武田  

ちょうど40歳の頃でした。でもそのまま病院や組織にいたら看護師や事務方に押さえられ、自分がやりたいことができなかったかも知れないです(笑)

 

関原 

さて三人の共通は、地方の出身者であること。それぞれ福井県(中村)奈良県(武田)広島県(関原)なのですが、私は若かりし頃、東京で格好をつけ設計コンサル事務所を営んでいましたが(笑)、やはり地域が馴染み、現在は自宅の神奈川からあちこちの地域へ出向いております。

 

●自治医大の卒業ということで当初から『地域』に向き合おうとされていたのですか?

 

中村 

義務年限期間、県の命令があればいこうかな?というくらいの意識でしか最初はありませんでしたね。

 

武田 うんうん

 

関原 

会場の皆さんも自分はそうだった、或は家族がそうだったというように都会に出たいとか、格好いい仕事につきたいとか思う事はありませんでしたか?

最初から地域にこだわることはあまりなかったかと思います。しかし、最近は少し変わってきているようですね。

 

地域創生の政策が打ち出され、地域おこし協力隊とか、地域◯◯隊とか何となく若者のブームのようになっていますが、実態はなかなか着地しきれていない状況のようです。

先程、義務年限の間だけ地域で仕事して後は何かをという話をされましたが、学生の頃は何になりたかったのでしょうか?

 

中村 

大学に入り最初は脳外科医になりたかったですね

 

関原 

脳外科医!

 

中村 

あれ、関原さんも頭でかいからノウデカイ?(笑)

 

武田 

時々こうゆうジョークを言うから楽しいですよね(笑)

 

中村 

脳外科医になりたかったのですけど地域医療を行うには少しマイナーすぎるんですね。で、割とつぶしのきく外科医になろうと途中で考えが変わりました。それから地域へ留めさせるエピソードがいくつもあり名田庄の人達が好きになり、変わっていきましたね。

 

関原 

先程ドラマの話がありましたが、小池徹平(中村伸一役)が、奥さんと車に乗ってロックをガンガンかけながら村へやって来るシーンから始まりましたが、もうひとつ三人の共通は、学生時代にバンドを演っていましてね(笑)

 

中村 

僕はハードロック、ヘビーメタルのバンドでボーカルをしていました。

 

武田 

当時ヤマハのポプコン関東甲信越大会で杉山清貴と競ったり(笑)

 

関原 

では、一曲(笑)。でもドラマのシーンも、何かとりあえず村に行ってからという雰囲気がでていましたよね?

 

中村 

そうでしたね。僕は今の若い人を“チャライ”と言えないくらいチャライ人間でしたので、ハードロックをかけながら車を走らせていました。

僕の生まれは名田庄村ではなく、福井県東部の三国町(現さかい市)という所で、風光明媚な自殺の名所で有名な東尋坊がある海側の生まれなので、山の感覚がよくわからなかったのですが5月に赴任してきた時、緑がいっぱいで思わず嫁さんに「こんな緑ばかり観ていると目が緑内障になるわ」と、冗談を言ったほど、びっくりした記憶があります。

 

●その頃、義務年限が終了すればどうされようと考えていたのですか?

 

中村 

言い方は適切ではないもしれませんが“御礼奉公”と考えていて、義務が9年間ある代わりに学費なしで学ばせていただいたのでちょっと行っておくかくらいで、強い決意があったわけではありませんでしたね。でも行った時、愕然としたのは情報が少ないことでした。

 

平成3年の頃、今のようにインターネットもなく、自分にとって医学情報は学生時代の教科書やノート、研修医時代に買った本、図書館でコピーした文献くらいでしたので、わからない事があればどうしようという感じでした。あとは人的ネットワークで知っている先生に電話をかけたりすることしかできなかったです。

    

けれど、自信満々で行ったのですよ。福井県立病院の救急外来(ER)で、ありとあらゆる初期治療を学んでいたので、自分はいろいろな病気を診ることができると思って着任しました。

ところがね(小声で)、慢性疾患の管理はやったことがありませんでした。研修医ですから当たり前なのですが。でも全然出来なくて、高血圧や糖尿病の人の対応がわかりませんでした。

 

恥ずかしい話ですけど、救急外来だとどこどこが痛いとか、かゆいとか訴えがあるわけで、しかし高血圧や糖尿病で薬をもらわれコントロールされている患者さんはどこも痛くも痒くもないわけで、どう話をすればよいのかわからなくて、最初の2〜3ヶ月は怖かったですね。自信満々で赴任したのに鼻っ柱を砕かれ、恐がりながら診察していました。

 

関原 

武田先生はどうでしたか?大学卒業後、地域へ行くというのは?

 

武田 

大学を出る頃、僻地医療に向き合う自分の姿はイメージできなくて、奈良県に帰ってきて十津川村とかの山間部で働くのだろうな〜くらいで、車の運転ができないといけないだろなくらいでした。

将来、専門医になることなど全く考えていなくて、回りの人から「やさしそうやから、小児科の先生が似合うよ?」と言われて、なんとなく小児科医を取っているくらいでした。もちろん『地域』がどうとか考えていませんでした。

 

僕の時代も同じで、やはり情報がなくて大変でした。赴任する前、嫁さんを連れて下見に行ったことがあります。

まだ雪が残っていた3月頃、暗い曇りの日でした。車で山間部へ向い、峠を越えた辺りからだんだんと民家が減ってきて、少し先へ行くと”ぽつん”と役場がありました。(さみしい)

 

他には建物がなく、あと何でも屋さん?生活用品を全部売っている店が一軒、もう少し行ったらもう一軒というくらいで、どこがメインストリートやろう?という感じでした。

天気は曇って暗いのに、嫁さんの顔も不安で曇ってきたのを覚えています。(笑) 

ガイドブックや写真では緑が多くてきれいだったのですが、実際に来てみると全然違っていました。

   

それから中村先生とこれも同じく、僕も赴任当初は鼻息が荒かったですね。県立病院で最新の医療を研修し、僻地行ったらここで提供するぞと思っていました。老衰で弱って寝たきりの方がいても、血液検査したらアルブミン(低栄養)になっていからと、点滴を”ガンガン”入れたりしていました。

 

家族とすればそろそろかな?と思っているのに、僕としてはすごい治療をしている自負があったのですが、家族は反対にどんどん疲れていくのです。(笑)

家族の方は、仕事があるし戻らないと”アカン”という状況の中、こちらは最新の医療をして頑張っている。とてもギャップを感じたことがありました。ええことしているのに家族は顔が曇っていく(笑)

 

●地域での暮らし、奥さん方は実家へ帰りたいとか言われませんでしたか?

 

中村 

結婚して間もなく子供3人できたので、子育てに忙しくて、そうしたことを考える間を与えなかったですね(笑)

 

武田 

僕も同じですね。子育てが僻地でじっくりできたのはかえって良かったですね。もし都市部の病院だったら、子供は僕の事を“お風呂に入れてくれるおっちゃん”くらいにしか思わなかったかもしれないです。(笑)

 

中村 

僕の同僚の先生が家から出勤する時に“また来てね”と子供に言われたそうです(笑)そのくらい早く出て、遅く帰りますから。

 

武田 

今日、お風呂のおっちゃん来ないね〜っ(笑)

 

関原 

そうして子育てをしていく中で、奥さんはすーっと地域へはいれましたか?

 

中村 

僕(我が家)がよかったのは、入籍する前に赴任し名田庄村で籍を入れたのですが、村の方達より医学知識が多少あった程度で、社会人としても家庭人としては素人同然でしたので、地域の人達がいろいろ教えて下さいました。

 

僕が医療を提供する、そして住民の方々からいろいろな事を教わるというギブ&テイクの関係ができたのがすごくよかったです。結婚後10年、20年経過してから行かなかったのが僕の場合はよかった気がします。嫁さんが22歳の時だったのですが、ちょうど娘さんが都会に出られた住民の方がいらして、娘や息子のようにかわいがっていただきました。

 

関原  

武田先生のご家族はいかがでしたか?

 

武田 

うちはどちらかというと積極的なタイプではないのですが、それでもベビーカー押して散歩に行って帰ってくると子供がいないんです。野菜に埋もれてですね(笑)出かける度にベビーカーにいっぱい野菜をもらってきてました。

子供が一人で遊びに行っても、◯◯ちゃんと声をかけてくれたり、遠くにいたりすると「先生のお子さん?」と、連れてきてくれたりして地域で見守ってくださいました。

 

関原 

そういった意味ではお二人(家族)とも地域とのコミュニケーションがうまくいったということですね。でもうまくいかない方もいますよね?

 

中村 

小さいお子さんを持つお母さんで地元出身ではない人も結構いらっしゃるのですが、乳幼児健診とか予防接種とかで出会うところからコミュニケーションが生まれるますよね。

 

当時名田庄村には保健センターがなくて、集会所に集まって応接するわけですけど、そんな中で人と人のつながりができてくるので保健医療福祉の保健事業は若いお母さん方を支えるポイントになっていることを自らの体験をもって思いました。

だからこそ名田庄村で保健センターが必要と感じ作らないと行けないと

いうことで総合施設の計画を関原さんに依頼した経過がありましたね。

 

●保健福祉センターの計画 関原宏昭

 

保健センターは一般的には行政、市町村がつくる専門的なものなのですが、このようなコミュニュケーションの空間は、集まりやすいファーストフード店や一般的な場所ででもできるのではと考えていました。言葉は固いのですが“民間型の保健センター”のような身近な健康コミュニティができたらいいなとずっと思っていました。

 

こちらのふれ愛センター(みなべ町保健福祉センター)の計画時でも、「お茶の飲めるところがあったらいいよね」「健診だけじゃなく来れたらいいよね」という声が多くあったので、1階にカフェのようなデイサービスのような空間が生まれました。ひょっとしたら日本で初めてのスタイルだったかもしれません。

 

皆さんで創る空間、皆さんが喜ばれる空間。しかし営業(経済活動)ではない空間。

ということで、継続していくために“志”のような代金入れが置かれ、ボランティアでの運営が始まったのですよね。

しかし“民間型”を自分で創ることができたらまた違う空間が出来るのではと思うようになり、沖縄でヘルスコミニティ型のカフェを始めてみたのです。

 

ヘルスコミュニティ グクル

https://www.gukuru.net/

 

中村 

関原さんは元々は、地域づくりをやられている人たちのコンサルタントや施設設計のソフト&ハード業務をやっていたのだけど、いつの間にか自分がやりたくなり始めたのですね(笑)

 

関原 

来られる方に声をかけることが楽しくなったのですね(笑)東京で設計コンサル事務所をやっていた者が「なんで沖縄で、わざわざやるの?」とか強く言われましたが。でも、今年で10年目になります。

少し違うかもしれませんが、お二人が『地域』で頑張ってみようと思われた気持ちと似ていたのかもしれない。自分でやってみたくなる、地域で頑張ってみたいという気持ちが。

 

武田 

いきなり東京の建築家がここ(みなべ町)にやって来て、東京の考えで計画して、行政が予算つけて建ててしまうじゃないですか。建てたあとからああしたほうがよかったと言う事がよくありますが、関原さんは建てる前から現地に入って、住民の方と交流して地域の話を聞いてソフトからどういう“コト”を創りあげればよいのかをずっとやってきているのですよね。

 

関原 

そういうスタイルは仕事の回転が悪い“まどろっこしい”ものなのであまりやる人がいないです。

 

武田  

まどろっこしいですよね。

 

関原 

それが面白くて続けていますが。(笑)

そのことを最初に出会わせてくれたのがここ“みなべ”でしたね。

 

中村  

元々店舗の計画をされていたのですが、その店に行きたくなるよう地域性を考え計画されていたのですよね。建物だけできればいいのではなく。

 

関原 

いらないことでした(笑)お店はお客様、公共施設は利用される住民の方が真ん中で、その方々が訪れやすい空気、利用しやすい空気、何かある時だけでなく何もなくても行きたくなる空間づくりをやってきました。

利用される方を支えるのがスタッフや職員であればと思っていても「誰が運営するの?」「続くの?」とか計画打ち合わせの時に出てくると提案だけで終わることが多かったですね。

じゃあ自分でやってみようかと(笑)

 

中村  

店舗もそうでしょうけど、モノを買いたいから行くというだけでなく、用事が無くてもなんとなく寄りたくなるような雰囲気があるからこそ後々モノを買ってくれるような。

 

関原 

店舗も”人”でしょうね。建物はコミュニケーション空間。

こちらへ来る前に社協さんが運営をはじめた“はあとカフェ”へ寄らしていただきました。

川口富士夫さん(みなべ町社会福祉協議会事務局長)がマスターをされており、美味しいコーヒーを入れていただき、ゆっくりと話をしてきました。

 

はあとカフェ

http://blog.canpan.info/minabeshakyo/archive/106

 

どうも常連さんで、2−3時間長居をされる方(笑)がおられるようなのですが、おそらくスタッフや川口さんのファンでいらして、話がしたくて度々来られるのだと思います。

ずっと相手をされることは大変かもしれませんが。(笑)

 

しかし、場の”真ん中は人”、”地域も人”であって、産業、雇用の有る無しということもあるかもしれませんが、その前に“ここで暮らしていてよかった”“あなたい出会えてよかった”と感じられることから『物語』が始まるのではないかと思います。

 

●義務が終了した後「もう地域はいい。専門医に戻ろう」考えませんでしたか?

 

中村 

ないことはなかったです。

外科の仕事は面白いですから。自分で癌を切除して、治ってとても充実感のある仕事ですから何事にも代え難いものはありました。

でも、ひとつの『地域』を包括的にみていく面白さもありました。もう一度名田庄村に戻った時、当時の村長から保健医療福祉全般の権限を与えられ、包括的な地域づくりを担うようになりました。それ以降、更に面白くなりました。

 

武田 

これ神話性なのですが、自治医科大の卒業生でも地域へ行って”二度と行かない”とトラウマを背負ってくる人もいます。ただ僕らもそうでしたが、地域へ行ったことをハンディと捉えるのではなく、プラスにできるようなチャンスと思っている人はすごく伸びています。

けれど、俺は行かされた、専門医としてもっとできた筈なのにと、僻地が足かせになっていると思っている人はその後伸びていないのです。僕自身は、僻地へ行ったことがその後“イケイケ”になりましたね。(笑)

また、中村先生と同じように地域に支えられ“お互い様”の心で、地域の人に教えられたことがたくさんありました。

   

いつもイタドリを採っておいしく漬けられている民宿のおばあちゃんが、200近くの高血圧でしたので「放っておいたらあきませんよ!」ということで、140〜150くらいにもっていきました。が、「しんどい。イタドリの作業ができない」と言われるのです。

やむなく優秀な研修上がりとしては(笑)170〜180の心苦しい血圧にもっていくのですね(笑)

 

許しがたいのですが、「ばあちゃん作業に出られへんかったらかわいそうやから」とちょっと緩めにコントロールしていくと、ばあちゃんまた元気になっていきました。

 

また、90歳位のばあちゃんで町へパチンコに行くのを楽しみにされているのですが、糖尿病で血糖値のコントロールをしてました。しかし、しすぎるとかえって調子が悪くなり、出かけることができなくなったりするのです。

 

その方の病気を治すのか、生活を良くして行くのか、いろいろ考えながらしていくうちに、『生き方』が見えてきましたね。病院ですと、処方して二週間後、一ヶ月後とその人の”病気の部分”しか診てないのですが、僻地では”生活そのもの”が見えてきましたね。

 

関原 

いろいろな経験することで向き合い方が徐々に変わっていったのですね。

 

武田 

地域で教えてもらい、身に付いたのでしようね。病院では生活の所までみることは教えてもらえないですから。

 

●先程、仕事だからとか、やらされているとか思うタイプは伸びないと話されましたが、お二人は仕事だから'しょうがないな”とか思われたことはありませんでしたか?

 

中村 

仕事はしょうがないとか、いやだとか思ったことはないですね。趣味は自分の好きな事を行ってお金を払うのですが、仕事は相手に求められることを自分の好き嫌い関係なく行って、しかもお金を頂くのですよね。

 

関原 

やらされていると思うタイプは?

 

中村 

それは、僻地に行ったから専門医の資格が取れなかったとか言ったりして、でも取れる環境でもそのタイプは取れないと思います。

取れない理由を僻地にしているだけですね。直接目の前で言うと傷つくので言えませんが。何かの言い訳に僻地に行ったことを出すのは伸びない理由ですね。それをプラスに考えるべきで、何でもそうですけど同じ事をやっていてもプラスに考えないと。

 

武田 

プロフェッショナルの最後の言葉ですね!

 

中村 

そうだったですね。俺なんて言ったかな?(笑)

 

プロフェッショナルとは

逃れられない困難な状況にあってもそれを宿命として受け入れ、尚かつプラス思考で時として楽しんでいく、そういったことができるのがプロフェッショナルじゃないでしょうか。

 

武田 

かっこよかったね。

 

武田 

僕が言った言葉を格好よく言ったらこういうことになるんですね(笑)

 

●若くして地域に赴任され責任も早くから持たされたのですよね?

 

中村 

大学卒業後3年目で一つの診療所、一つの地域の責任をいきなり負うわけですから、しかもさっきもお話したようにインターネットない時代で簡単に相談はできないし。

あとどのタイミングで他の医師に紹介状を書くかの判断も悩みました。ちょっとわからないからと簡単に書いてしまうと、患者さんにしてみれば最初から専門の病院に行けばよかったとなりますから。

   

反対にとことんねばって最後に手が終えなくなって書いたとしても、患者さんにしてみると、やはり最初から病院へ行けばよかったとなります。

じゃあ自分の存在価値はないじゃないかと思う訳です。また自分の行った治療に自信がないのです。教科書にはこうかいてあって、自分はこうしたのだけれど、はたしてどうなのだろうかと考えるわけです。自信なかったですね〜。

 

武田 

自信ないよねー

 

中村 

わからないから患者さんの家に電話して、「僕が出した薬で治ったでしょうか?」と。すると「あー先生、お陰さまで治りました。」と話されたらそれが正しいのです。

でも、ある患者さんは「あー先生にもらった薬では治らなかったので小浜病院行って別の薬もらったら治ったわ」と、申し訳なさそうに話され、「すみません、今度その薬見せて?」と、次の時にはそうしたりしました。(笑)

   

いわゆる1対1の人間関係のフィードバック、自分の治療が正しいのか正しくないのか、目の前の患者さんが治って行く、治らないことも含めて都会ではあり得ないかもしれませんが田舎だからリピーターになってくれるのですよ。そういったことを通じて本当のフィードバックをかけるのが、医者としての腕をあげることに一番の近道だったのではと思います。

 

今の若い医者を見ていると、インターネットで調べて、自分が世界的で標準的な治療をちゃんとやっているかどうかに興味があるようですね。

自分は正しい治療を行っているからいい、患者さんはどうなっているか知らない。それっておかしいですよね。患者さんが治っているかどうかが一番大事な問題であって、だからといって世界最新の治療を勉強しなくていいということではないです。

 

武田 

よく”点滴神話”と言っていたのですが、診療所行ったらみんな点滴をしているのです。ニンニク注射(アリナミン F)を打ったら元気が出るからと、患者さんがリクエストする“文化”がありました。

そういう状況でも若い先生は「必要ありません」と断ったりするのです。皆さん、それを望んで診療所へ来られているのですけれど。とたんに診療所はガラガラになりました。(笑)

 

僕らも点滴はよくないなと思いながらも、まずは信頼を得てその地域に溶け込んでから徐々に点滴のことを理解していただけるようにしています。でも若い先生は、最新の考え方に変えて行くのが“正義”だとやっ ていたりします。 

僕もそうだったのですが。(笑)どうも違うなとわかったのでよかったです。

 

中村 

ご主人が寝たきりで介護をされている奥さんが胃腸風邪で診察に来られました。水分は自分で採れている状態だったので「点滴は必要ないかな?」 と、看護師に相談したら「今、旦那さんはどうされていますか?」と聞 くのです。「今、主人の妹が来ていて見てくれてます。」と話されました。すると看護師は「先生、点滴せんとアカンわ」と言うのです。

つまり、 点滴しないで帰らすと、妹さんも帰ってしまうので、点滴をして奥さんを2時間程休ませてあげたほうがいいということなのです。

 

それを聞いた時、なるほど!医学的適用というのは生活を見てきめればいいのだ。しかも、介護を代わりにみてくれる人が居る時に点滴をすることで2時間程介護から離れ、ここで休めるのだ。

それからは、生活状況に配慮して治療を決めるようになりました。

 

武田 

癌とか末期治療の時はあまり点滴しないほうが楽に最期を迎えられるのですが、家族からは「なんで点滴しないのですか?」とか言われることがあります。そんな時は家族の方とお話をしてどうしても納得していただけない時は“アリバイ点滴”といって少しだけしたりします。量を増やすと苦しがられるので少しだけ演出的にすることもります。

 

中村 

地域を離れ都会にいらっしゃるご家族が見舞いに帰ってこられ、点滴と在宅酸素を使っていると何故か安心されますよね(笑)

 

武田 

認知症でも家族間の似たようなエピソードがあるのですが、離れて暮らしている家族が帰ってくると「何も食べさせともらえない。今日何も食べてない」と話すおばあちゃんがいたりします。すると「なにしてるの?」と同居している奥さんと口論になりかけたりします。そんな時は、「奥さんはちゃんと食べさせてあげていますよ。認知症の症状ですよ。」と、フォローしてあげています。(笑)

 

●在宅医療

 

関原 

在宅医療とか認知症の話がでましたので、そのあたりも含めて進めていきたいと思います。

会場の皆さんは、訪問診療と往診はどのように違うかご理解されているでしょうか? 

 

武田 

これ一昨年の国家試験に出たのですよ。

 

関原 

そうなんですね。茨城県の水戸市で3年前から“コミュニティと在宅医療のお話会”という活動を行っているのですが、その中で住民の方にしっかり理解していただいている一つです。はっきりと解る方は?

 

中村 

俺わかる!(笑)

 

関原 

往診というのは熱が出たとか、怪我をしたとか緊急時にお医者さんに来ていただくもので、訪問診療は、健康な時から契約し、2週間に1回とか1ヶ月に1回とか定期的に訪問していただくものです。そして緊急時には24時間365日対応する契約システムです。

 

水戸在宅ケアネットワーク(顧問 関原)

https://zuttomito.localinfo.jp/

 

●退院を促進し自宅復帰・在宅医療をすすめる制度が進んでいますが、実際のところ地域医療をされていてどのように感じられていらっしゃるでしょうか?

 

中村 

僕は長年在宅医療も看取りもしてきていますが、何が何でも在宅でという在宅至上主義者ではないですね。病気や障害を持っても出来るだけ自宅で過ごす時間を長くしたいという思いは持っていますが。

しかし、国の政策は病床を減らそうとか医療費をどうだとかというところからきているので、我々と違うところにあります。

   

でも、最期は病院で死ぬのだろうなと思われている方が、「ちょっとまてよ、在宅という選択肢もあるんだ」と、思えることは非常にいいことだと思います。

”ずっと在宅、時々入院、最期はどうなるかはその時次第”

そんな感じで捉えていたらいいのではと思います。

 

武田 

ほぼ同じですね。在宅医療学会とかありますが、一般家庭にはまだそこまで在宅医療は浸透していないです。

僕らは地域をみる中で在宅のニーズがあればちゃんとサポートしていますが、在宅医療、看取りばかりをしているのではありません。

赤ちゃんから高齢者まで“人生をみる診療所”であるつもりです。

そう言いながらも在宅医療、増えてきています。退院調整のルールができ、この1〜2年ケアマネージャーは大変ですよね。

   

先日も、大学病院に入院されている末期癌の男性患者さんが、自宅に帰りたいということで退院調整を行ったのですが、その方の娘さんが「この状態で帰らせるのですか?」と言い、奥さんは「最期は家で送ってあげたい」と思う中で「帰られたらちゃんと診ますよ」と、話し帰らせてあげることになりました。そうして退院準備が整ったところへ「お亡くなりになりました」の連絡があり、間に合いませんでした。

このように動きが早くなっているので、ついていけないこともありますが、僕らは「帰ってよかったね」と思える最期、看取りを支援する立場にあります。

 

中村 

そうですね。業界としては葬儀屋さんのほうに近いですね(笑)

 

武田 

抗がん剤とか、手術とかするわけではないので、どうやって最後の時間を家で、或は病院で過ごされるかを演出しているのかもしれません。

 

●一番大切なことはご本人の意思を確認することだと思いますが、簡単ではないですよね?

 

中村 

たとえば都市部には在宅医療専門の医師がいらっしゃいますが、彼らの方が看取りの数も経験も多く、そうした技術は持っていると思います。

ただ、彼らに比べてちょっとだけアドバンテージがあるとすれば、僕らは長年診ている患者さんが診療所へ通えなくなってから訪問診療をして、その家族も僕らが診ていて、ずーっと診ていた流れの最終段階を在宅で診ているのです。

 

在宅専門の方は、在宅医療をやらざる終えなくなってから初めて患者さんや家族の方と会うわけですから。僕らは、本人や家族との長いつながりがあるので、本人がどういった考えの持ち主かわかっているし、家族の考えもあらかじめだいたいわかっているということです。

 

 

武田 

それは理想ですね。地域の在宅医療では、自分がかかりつけ医として診ていた人が帰ってきて再び診るブーメラン型、地域の人が帰って来て初めて診る落下傘型、「もう帰ってきています!」と、病院を自主退院してきて訪問看護ステーションからいきなり主治医の依頼があるような爆弾型、そして、何日も食べてなく、お風呂もはいっていないような住民を民生委員さんや地域包括支援センターから連絡が入るゲリラ型があります。 

床ずれだらけ、おしっこだらけ(笑)

こうした、ちゃんと食べられて介護だけすればいいようなゲリラ型をこれまで病院はあまり受けてきませんでした。 

1ブーメラン型2落下傘型3爆弾型4ゲリラ型,理想はブーメラン型です。

 

中村先生の地域はずっと診ることができていますが、僕の地域の明日香村周辺は半分都市部で奈良医大等も近いので、病院ばかりかかっている方が多いのです。

しかし、元気なうちからかかりつけ医をもっておいていただくと将来なにかあった時でも病院とタイアップしてできるのでコミュニケーションが取りやすいです。落下傘型で退院調整へ行っても関係をそこから築かないといけないのでとても緊張します。

 

中村 

おっしゃる通りですね。

一番楽だったケースでは、僕が胃カメラで進行した胃癌を発見しリンパ節へも転移していて、取りきれるのかどうかという状態で病院へ送り、自分が外科医なので自分で執刀し治りました。抗癌剤も使うのですが一年半くらいで再発し、病院行ったり在宅で診たりしながら最期は自宅で自分が看取るという最初から最期まで自分が関わたケースです。

 

最近、小浜市の名田庄よりの地区で落下傘型のケースが何件かあります。いつも名田庄でやっている専門職のチームと違う小浜市のチームとやらないといけないので、そのときはケアマネージャーさん頼りです。

でもそういう人の場合、腹が据わっていますよね。家に帰って過ごすと決めているものだから、途中入院させようかとかあまり迷わなくていいので、そういった点では少し楽かもしれませんね。

 

武田 

これから落下傘型や爆弾型の人も多くなりそうですね。「先生、相談があるのですけど」と声がかかると怖いですね。

 

中村 

こういう方を診てもらえませんか?だといいですが、ちょっと相談があるのですが?は、いやな予感がしますよね(笑)

 

●福祉の方々とこういう思いで地域できたらいいね!とかありますか?

 

中村 

よく福祉の方々から医療とか医者は敷居が高いと言う言葉を聞くのですけど、“敷居が高い”という言葉をちゃんと分析して欲しいです。

どうゆうことかというと妄想が半分、語る言語が通じにくいというのが半分、半分々あるのかなということです。それをなくすには共通言語を持つことだと思います。

 

僕らは患者さん、福祉の方は利用者さんと言いながら同じ人を指しているのですが、その人達の幸福が目標である事は間違いありません。同じ意識なので、いろいろなことでコミュニケーションをとって行きたいですね。

ケアマネージャーだとケアプランを立てことは目標ではなく手段なのです。僕らも治療することは手段であって患者さんが幸せになることが目標ですので同じ『仲間』なのです。

 

武田 

これから総合診療専門医や学生が介護の現場へ実習に行く機会が増えると思いますが、お年寄りが食べられるようになる喜びとか食べる力を見届けたりすることを一緒に体験しながら学ぶことが出来たらと考えています。

今、病院で働かれている世代は、介護の現場を全くと言っていい程、知らないです。殆ど往診に出たことがないので、家庭に薬が山積みになっているのを見たりする経験もありません。

   

福祉関係者も高度化する介護、ケアを勉強していかないと行けない時代になっているのでお互いが寄り添える、わかり合える取り組みを企画し多職種の皆さんにスーパーバイジングしていってほしいですね。

 

 

●地域に出会い、地域に向き合うことで生き方、人生観の変わられたお二人ですが、これからどのように地域、地域医療と向き合っていくのかをお聞かせ願えれば。

 

中村 

平成12年頃から母校の学生を教えており、また平成17年度からは福井県内の4つの病院と横浜の病院から研修医を4週間から1ヶ月単位で受け、若い人たちを教育しています。

その中で8割くらいは地域医療を目指さず、専門医療を目指します。2割くらいは地域医療、総合診療をやってもいいかなと思っている人もいます。さらにその中で名田庄に残っていいかなと思う人は皆無に等しいです。だったらその人たちを教えなくていいかというとそうじゃなくて、教える必要があるのです。

 

そういった人たちを教えていくうちに名田庄の跡取りはできないかもしれないけれど、日本のどこかで地域医療をする人が出て来ているのです。この国の地域医療が良くなればと思いながらやっていると、そのうち名田庄がよくなればいいなという気持ちがちょっとあるかもしれないです。

そのくらいの広い心でやらないと教育とか地域医療を広げることはできないと思っています。これを『全日本名田庄化計画』と言っていますが。

 

もう一つ地域に対する思いとしては、名田庄を地域にして健康づくり、元気づくりを全国に発信していくNPOを2年後くらい目処に創ろうと考えています。僕が無報酬で理事長になる予定なのですが(笑)そのくらい地域に“のめりこむ”必要があるのでやっていこうと思っています。これから名田庄という地域が、僕にとっても楽しみでライフワークになりそうです。

 

武田 

明日香村から車で15分くらいの所に奈良県立医大があり学生が自転車で気軽に、研修や実習にきています。

身近に地域を学べる、在宅医療、介護、保健を学べるフィールドがあることで現場を理解した先生が増えていけば地域もよくなるのではと思い、学生を受け入れています。

 

総合診療医

http://www.pref.nara.jp/isikangosi/naradr/soushin/

 

  

これまでの研修指導の中でも、「できれば明日香村で働きたい」という学生が出てきていますので、いつでも僕は引き継げるようにしつつあります。また、足場を固めながら自分の好きなスタイル“医療と介護をしっかりとつなぐ地域づくり、人材の育成、事業の翻訳ができる医師”になれればと思っています。

奈良県ではまだまだ連携体制ができていないですから。“つなぐ明日香”という医療と福祉の連携スタイルは、隣の橿原市からも勉強に来られたりしており、県内各地へも広がればと思っています。

 

中村 

武田先生は小児科医を中心とした総合医、僕は外科医を中心とした総合医です。が、まだ総合医の制度が出来てないので“自称総合医”と呼んでいます。(笑)

現在、日本専門医機構では『総合専門診療医』という認定医を新たに計画しており、6年後に総合専門診療を専門とする医師の第一世代が出る予定です。

 

その人達は小児から高齢者までを診て、しかも在宅医療もしっかり行う医師となります。

因に僕は、その日本専門医機構で総合専門診療医に関するワーキンググループの委員しているのですが、現在大変苦労をしています。(笑)

でも苦労した分だけ、いい結果がついてくると信じていますので皆さん期待して下さい。

 

●最後に『地域に向き合うプロフェッショナル』とは?

 

中村 

本当に地域を好きになることでしょうね。以前僕は、脳外科手術を受けまして2ヶ月程診療所を空けてしまったことがありました。復帰後、夜間、休日の救急患者が激減しました。僕は病み上がりだから救急対応をしませんとかアナウンスをしていたわけではないのに、住民の方々が、いわゆる“コンビニ受診”を控えてくれ、僕を支えてくれました。

僕が地域を支えているつもりだったのが、僕が地域に支えられている、つまり双方向のような『絆』があるから地域は成り立つのだと思いました。地域に対する愛情です。

地域医療のプロというのは地域住民もプロでないと育たないのではと思います。

 

”双方向の『絆』が地域に向き合うプロフェッショナルを育てる”のでは。

 

 

武田 

僕は、地域“で”医療するのと、地域“の”医療する違いをよく話しています。たとえば、病院に勤務されていた先生が地域で開業されると自分の専門以外は診ないといったことがよくあります。これは自分の医療を地域“で”行うだけです。地域“の”医療というのは、専門だけでなく地域が必要としていることを勉強し、自分を変え地域に合わせて動くことだと思います。

 

”つねに勉強しながら、地域のために出来ることを行い続ける”ことでは。

 

関原

私は、保健医療福祉の専門職ではありません。しかし、普通の住民が地域の健康、元気を考える時代です。専門職の方々だけでなく、”みんなが普通に力を合わせて地域づくりを続ける”ことができればと思います。

今日、三人で久しぶりに”遊びに来た”のですが、真面目にトークをやっちゃいましたね。(笑)

でも、とても楽しく過ごさせていただきました。参加してくださった皆様のおかげです。また、いつの日かみなべへ揃って来れたらと思います。

 

一同

ありがとうございました!

 

終わりに

今回のトークライブを開催するにあたっては、みなべ町社会福祉協議会 川口富士夫さん、土井郁夫さん、みなべ町ふれ愛センター 土井幸代さん、みなべ町 永井恒雄さん、二葉美智子さん他、多くの住民の皆様にご配慮をいただき行うことが出来ました。感謝申し上げます。